カルロス・マルティン・バジェステル・コレクション

 現在スペインで注目のフラメンコ研究家、カルロス・マルティン・バジェステル氏は、何と10万点を超える膨大な古典音源(シリンダー録音・SP盤ほか)の所有で有名だが、その主要音源を占めているのは「フラメンコ」! そうした貴重な資料を存分に駆使し、フラメンコ創成期を代表する三巨頭、アントニオ・チャコン、マヌエル・トーレ、トマス・パボンの核心に迫ったCD&伝記本の人気シリーズ「カルロス・マルティン・バジェステル・コレクション」の概要を、今回はご紹介させて頂こう。

「歌うために“何者か”である必要があった」(チャコン)

 シリーズ第一作の主役「ドン・アントニオ・チャコン」(1869〜1929)は、“マラゲーニャの名手”で知られ、ヘレスはサン・ミゲル街出身の、恰幅良いスーツ姿の白人紳士を思い浮かべた方も多いだろう。とはいえ、カンテ以外のチャコンの「生の声」を知る方は少ないはず。本作の評伝部分には「Entrevistas(インタビュー集)」(p72〜)と題して、1912年以降に行われたチャコンへのインタビュー8本を掲載しており、これが滅法面白い。1922年6月28日、「ラ・ボス」紙上での一幕を抜粋してみよう。(p76、ルイス・バガリア記者、チャコンは当時53歳)

――“カンテ・ホンド”について話したいと言うと「ちょっと待った」と厳しい調子で遮られてしまった。「“カンテ・ヒターノ”と呼ぶべきで、“カンテ・ホンド”とは関係ないんだ」(中略)
――今のカンテより、昔のほうがカンテを上手く歌っていた? 「今の“カンテ”には、昔なら必要だった勉強が、必要なくなっている。以前は歌うためには、“何者か”である必要があった。今は誰でも“カンテ”へ身を投じられるわけだ」(中略)
――カンテで最もプーロ(純粋)なものは何でしょう? 「“トナー”と“リビアーナ”が、一番プーロだね。独自のリズムを持っていて、そこからあちこち出られないからさ」

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  第二作目、“カンテ・ヒターノの王”「マヌエル・トーレ」(1880〜1933)に掲載の逸話も興味深い。20世紀の巨匠、アントニオ・マイレーナ(1909〜1983)による昔話の伝え聞きだ。1918〜20年頃、セビージャからマドリ―ドに電話で呼び寄せられ、チャコンとリナーレス出身の歌い手バシリオの前にトーレが現れた状況の、衝撃的な描写である。ちなみにチャコンは11歳年下であるマヌエル・トーレの熱烈なファンであった。(p76〜)

マヌエル(・トーレ)が入ってきた時、チャコンがアモンティジャード(シェリーの中辛口種)のボトルを渡すと、マヌエルは非常に大振りなグラスで二杯分、立て続けに飲み干したのだった。チャコンはバシリオに歌ってほしいと頼み、彼はタラントを選んだ。 
Desde mi casa yo veo
  la fragua de Tío Laureano,
  a Fernando y la Raquela
  y los ojos de mi hermano
 その後、マヌエル・トーレが歌おうとしたので、(ラモン)モントージャはシギリージャを弾きかけたが、マヌエルは彼にこう告げたのだった。 「さっきのを続けてくれ」  マヌエルは印象的な声慣らしを終えると、バシリオが歌ったのと同じものを歌い出したのだ。それを聴くなり全身が粟だった。
   Desde mi casa yo veo
la fragua de Tío Laureano.....
   それ以上聴くのはもう不可能だった。バシリオはボトルを一本引っつかむと、みずからの頭で叩き割ってしまった。チャコンは皆で押さえつけなければならなかった。バルコニーから飛び降りようとしたからだ。

  ニーニャ・デ・ロス・ペイネスの弟で、“最高のシギリージャ歌い”とされた第3作の主役「トマス・パボン」は、たぐいまれな才能とは裏腹に、複雑な性格を抱えていたらしい。ギタリストのパコ・グティエレスは評論家マヌエル・セレホンとの会話で証言する。(p99〜)

「変わってるのはどうして? 病気だったのかい?」
「いや病気じゃない。トマスが病気と気づいたことはないよ」
「姉さんにコンプレックスがあった? 姉さんがすごく有名で、自分は姉さんより歌が上手いのに?……おっとこれは俺の意見だからね」
「いや 、コンプレックスは無かった。違うよ。彼の地の性格だね、変わってたんだよ」

 こんな風に、各冊とも100ページを優に超える評伝部分は、三者三様、色とりどりの秘話・挿話が次々に惜しみなく開陳され、スペイン語の文体もシンプルゆえ、非常に読みやすいのが特徴の一つだ。

125年前のソレアとシギリージャ

チャコン、トーレ、パボン三者の録音は、フラメンコファンならすでに一度は聴いているに違いない。とはいえ、市場に出回るアルバムの大半はオムニバスで、収録年や歌詞も不明瞭で限定的な場合が多い。本作のように最初から収録年代順に整然と並び、歌詞とオリジナル演唱者が明示され、ギターのコード詳細まで記された、伝記本の後半部分「カンテとギター解析(Análisis del cante y de la guitarra)」の有用性は計り知れない。不明瞭な古い録音の聴き取りは、ネイティヴでも困難を極めるからだ。
筆者は三部作の合計129曲、約6時間弱を改めて聴いたが、全く飽きなかった。シリーズ最古の125年前、1899年シリンダー録音のチャコンのソレア◆屬錣身を売って」、シギリージャぁ峪爐鮓討鵑任癲廚筺1908年のSP盤マラゲーニャ「父の墓に叫ぶ」の哀切さは、もはや再現できない世界だろう。トーレのレトラにはアグヘータ一族を筆頭に、20世紀のカンテ・ヒターノの源流とされるものが頻出。トマス・パボンは、初期録音にスターの姉、ペイネスのハレオが始終入り、盤面クレジットも「ペイネスの弟」と記されるが、後年50代のソレア欧筌泪襯謄ネーテ・イ・デブラ瓦蓮△修留洞舛鯤Э,靴っており味わい深い。
 カラーページへクリアに印刷されたレトラを見ながら、演者の年齢等を照合しつつ聴くという贅沢な楽しみは、これまでカンテ・フラメンコの世界ではほとんど存在しなかった。リピート部分を省略せず、歌われるそのままのレトラを掲載する体裁も、初心者リスナーへの配慮が感じられる。
 本作の画期的な点はもう一つ、レギュラー執筆者がバジェステル氏以外にも、3名参画していることだ。カンテ解析には三作通してラモン・ソレール・ディアス氏、ギター解析はノルベルト・トーレス・コルテス氏とギジェルモ・カストロ・ブエンディア氏、巻末記事にホセ・マヌエル・ガンボア氏。いずれも本作以外にも自著を持つ、スペイン・フラメンコ界で名うてのベテランライターばかり。現在制作中という第四弾の巨編「ニーニャ・デ・ロス・ペイネス」(‼)の完成も、今から待ち遠しい。(了)

(中谷伸一)